表現

創作物をする人に憧れてる。

 

言葉、文章、歌、演奏、写真、映像、、、

高校の同級生に作詞作曲をする人がいたこと、バンド活動をしている人がいたこと、写真を撮る人がいたこと、

ぜんぶぜんぶ憧れてたし、かっこいいと思ってた。それができない自分を悔しいとも思ってた。今も思ってる。

 

Instagramでこの動画を見た。

https://www.instagram.com/p/ClBP3G1PWyo/?igshid=YmMyMTA2M2Y=

一切踊れない私からしたら、良い踊りってどんなものかよく分からない。けど、この動画見てうわぁ、、ってなった。これはきっと「良い」ダンスだったんだろう。

 

YouTubeでこの動画を聞いた。

https://youtu.be/UzBgImCGrsg

声は楽器っていうけど、その通りだなぁって思った。

 

創作物をする人に憧れてる。その通り。

でも、私が本当に憧れてるのは創作をすることじゃなくて、その裏に伝えたいこと、想いがあることだと思う。もっというと、伝えたいこと、想いがあるってことにも憧れてたんだろうな。

分かり合う

曽祖父が死んだ時の悲しみと後悔は、私と妹とでは絶対的に違っていると思う。曽祖父が死んで私は悲しい。妹も悲しい。でもその悲しみと後悔の裏にある事柄も、その大きさも一緒なはずはないと思うんだ。

 

人は分かり合えるって簡単に言ったりする。話せば分かるとか、分かろうとする気持ちが大事とか。でも、話しても、分かろうとしてもその人のことや気持ちを本質的に理解することはできないと思う。悲しいって感情も一種類じゃないし、そもそも言葉で簡単に表せるもんじゃない。その感情・考えに至ったのには、その人だけの経験があってこそだと思う。それなのに、私もあなたの気持ちを理解できますよ。なんて言ってしまっていいのか。いけないだろうな。

分かる側じゃなくて分かられる側になって考えた時、あなたの気持ち分かるよなんて言われたら嘘つけよ。って思うと思う。

「〇〇ってバンド好き」

「わたしも好き」

くらいの他愛もない話しなら問題ないけど、もっと複雑な気持ちに対して分かるなんて、あり得ないと思う。

しかも「分かり合う」だから、私はあなたの気持ちがまるっきり分かるし、あなたも私の気持ちがまるっきり分かるってことだよね。そんなことあるはずないと思うんだよな。

 

話し合いをしてできることは、相手と私の気持ちの擦り合わせだろうし、分かろうとする気持ちをもってできることは、相手はきっとこうなんだろうっていう推測なのであって、分かり合うってことにはならないんじゃないかな。

 

人は分かり合えます。って言いたいところだけど、「分かる」ってことだったり、何かしらの感情に至るまでのことを考えれば考えるほど人が分かり合えるとは思えなくなる。難しい。

ケーキをまるごと差し出すということ。

親になるのは簡単じゃない。当たり前。

私がいて、相手がいて、ラッキーが重なって子どもが産まれてきたら親になれる。

本当、、、?

親になるってのは、私がいて、相手がいて、ラッキーが重なって子どもが産まれてきて、命を懸けて守るんだって思えるようになるってことなんじゃないかな。と、私は思う。

自分が親になるってことを想像してみたりする。小学生の時は、当たり前に結婚して、当たり前に子どものいる家庭を築くもんだと思ってたけど、それもなかなか簡単じゃないよな と21歳の新美は思う。恋人をつくるとか、結婚をするっていうハードルを乗り越えられたとして(この時点でだいぶ難しそう)、私が親になる選択を選べるのか。子どもがお腹にいるとき、障害があるのが分かったら、それでも産むって判断をするのか、生まれてから障害があることが分かっても愛せるのか。「ふつう」の子どもが産まれてきてほしいと思うのは当たり前なのかもしれないけど、どんな子どもでも愛せるって心の底から言えないうちは子ども欲しいとか思っちゃいけないんだろうな。

この辺も乗り越えたとして、子どもが育ってきたとき、私は親として愛情を注ぎ続けなければいけないんだと思う。明日大地震がきたらって話をお母さんとしたことがある。「避難所で1家族に乾パン1缶しかもらえなかったらどうする?」って聞いたら、お母さん「ゆりと妹に半分ずつあげるわさ」って言ってた。即答だった。何がなのか分からないけど、嬉しいなぁって思ったのを覚えてる。もしも話とはいえ、自分よりも優先できるのすごいなぁと思う。お母さんの行動を思い返してみると、1個しかないものを全部食べていいよって言ってくれたり、美味しいところを譲ってくれたり。ご飯が大好きだからご飯のことしか思いつかないけど、今の私にはできないなぁと思う。もしも話でも全部あげるなんて言えないな。一口ちょうだいとか言っちゃいそう。

子どもが産まれた時、どうやって親らしく振る舞うかのサンプルになるのは自分の親だよね。だから、虐待の連鎖なんて事象があったりするわけだけど。私は、私からみると立派すぎる親に育ててもらってるんだなって自負があって。ってなると私の親みたいな心持ちをもって子どもに接していかなくちゃいけないなと思うんだけど、今の私にはやっぱりできそうにないなぁと思う。

でもお母さん言ってた。お腹に10ヶ月もいてもらっちゃあ気持ちも不思議と変わってくるもんだよ。って。お母さんが言うなら多分そうなんだと思う。

わたし、たぶんチョロい。

好きって言葉にすこぶる弱い。

わたし、たぶんチョロいんだと思う。

 

今まで大して意識してなかった人でも、好きだよなんて言われちゃったら突然意識し出すし、なんか私も好きになってきた気がしちゃう。なんで好きって言葉に弱いのか考えてみた結果、私の中では、好きって気持ちを言葉にするハードルがものすごく高いからなんじゃないかって結論に至った。

物だったり事柄だったりに対しては、好きって言葉にすることに抵抗はないし、むしろ人より多く好きって言ってる気がする。だけど、人に対してってなるとなかなか言えなかったりする。その人のことまるごと好きだと思ってても、「〇〇のこういう所好き」みたいに部分的に好きですって言っちゃったり。言えず終いなんてこともざらにある。なんでこうなるのか自分でも分からないけど、とにかくこうなっちゃう。好きって言葉を相手に受け取ってもらえなかったら私が辛いからってのもあるのかなと思う。部分的な好きを伝えたとして、それを受け取ってもらえなかったとしても痛みは少しで済むからね。

 

私に好きって言ってくれる人は、きっと私ほど意を決して好きって言葉にしてるわけではないと思うんだけど、それでも好きです。一生私を好きでいてくれ〜って気持ちです。チョロくたって幸せな気持ちになれたらそれでいいよね。人間誰しも愛されたいわけだし。

 

 

脆さ

はぐらかして後回しにしないだけの強さとか、聞き返す勇気とか、切り出すタイミングとか、、、

そういう諸々が備わってたら、備わってないなりになんとかしようとできてたら、今とはちょっと違ったのかなって。